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◇Oxburgh Hall

さて、この日は少し遠出してナショナルトラスト所有の【Oxburgh Hall】へ。
King's Lynnの南にほど近い辺りです。

151028.jpg

駐車場から望むとこんな風。
ここからだとお濠は見えませんね。

151028-2.jpg

一辺が75mの四角い濠に囲まれて建つ建物は1482年頃のもの。
手前にはパルテール(刺繍花壇)が見えます。

151028-3.jpg

右手に広がるWoodlandの松ぼっくり。大きい~!

151028-4.jpg

濠に面した張り出し窓(Oriel Window)はヴィクトリア時代の改築です。
チムニーポットも。

151028-5.jpg

この建物への入口はこの小さな橋のみです。
要塞的側面を持ったマナーハウス、というのが特徴。

151028-6.jpg

小さ目の葉っぱの睡蓮。

151028-7.jpg

屋敷は1482年、Sir Edmund Bedingfeldによって建てられました。
当時は煉瓦を使った建築は要塞等に限定されていて、単なるマナーハウスに
使うのは珍しかったそうです。

ところで、この屋敷はBedingfeld家により500年間も維持されました。
このBedingfeld家の歴史について。

まず、この建物が建つ前に、つまり1066年のNorman Conquest以前に
マナーハウスがあったという証拠はありません。
ただ、de Wayland家というノルマン系の一族が1274年にOxburghの所有者と
して記録に残っています。
Thomas de WaylandはEdward1世の裁判長で、自身の財産を増やすのに
あらゆる機会をとらえた欲深い、嫌われ者でした。
彼の不法な詐取が露見すると、領地の殆どは取り上げられ、唯一妻の名義
であったOxburghだけは手放さずに済み、1434年には遠縁のSir Thomas
Tuddenhamへ受け継がれました。

このTuddenhamもひどい人物でした。
彼の妻は不義により離婚され、尼寺へ閉じ込められました。
ばら戦争時にはランカスター家支持者であり、1462年にはEdward4世
対する陰謀を企てた罪により、国王反逆罪で死刑になっています。
彼は跡継ぎなくして死にました。

こうして、OxburghはTuddenhamの妹、Margaretへ渡ります。
Margaretは15世紀初めにEdmund Bedingfeldと結婚していて、1451年には
夫が亡くなり、翌々年には息子も亡くなりますが、この息子は孫を残しました。

その孫、Sir Edmund Bedingfeldこそがこの屋敷の建造者です。
彼は祖母Margaretより、Oxburghと他にも23のマナーを相続します。
彼は一族の本拠地をEyeからこのOxburghに移すことを計画しました。
そのために、新しい屋敷が必要だったのです。

この際に彼が得たEdward4世による"Crenellate"の勅許状が屋敷内に
飾られています。
Crenellateとは、「銃眼付の胸壁を持った建物」という意味で、いわゆる
要塞建築を建てることで、これには国王による許可状が必要でした。

どうでもいいですけど、20年前に祖母の兄であるSir Thomas Tuddenhamは
Edward4世に対する反逆罪で死刑になっているのに、その孫は同じ国王に
要塞の建築を許されているっておかしいと思いませんか?
なぜ国王の厚遇を得たかと言えば、孫の彼は大伯父とは違い、
ヨーク家支持者(=Edward4世側)だったのです。
ややこしや。

イギリス史ではよくあることです。
同じ家の父子兄弟であっても、支持する党派が違うことは。

ともかく、Sir Edmund Bedingfeldは1483年のRichard3世(ヨーク家の最後の王)
戴冠時にはKnight of the Bathに任じられました。
ところがRichard3世はたった2年後に、後にHenry7世となる王位簒奪者
Henry Tudorに倒されてしまいます。

これはマズイ。ヤバイです!<Bedingfeld家ピンチ!
Sir Edmund Bedingfeldはとっとと鞍替えし、Henry7世の忠僕となります。ぉぃ
変わり身の早いヤツ・・・。

Oxburgh Hallは新王Henry7世とその王妃Elizabeth of York(ヨーク家の
生き残り王女、Edward4世の娘)、王母Lady Margaret Beaufortの面々を
迎え饗応しました。

Oxburgh Hallの建造者が1496年に亡くなると、長男、次男が後を継ぎますが
いずれも嗣子を残さず死去し、1540年に三男で父と同名のEdmundが跡を
継ぎます。

彼は三男だったので、若かりし頃は軍人としてHenry8世ためにフランスとの
戦争を戦い、武勲を得て騎士叙任されました。
Henry8世が兄嫁であったCatherine of Aragonとの結婚を無効とした後は、
Sir Edmund(息子)を元王妃の家政の家令兼監査役に指名しました。

Henry8世とAnne Boleynの結婚と彼女の戴冠に参列しながら、Sir Edmundは
元王妃は最晩年をKimbolton Castleで拘束されていることに気付きました。
1536年、元王妃が亡くなると、彼は葬儀執行を司りました。
Henry8世と王妃Anneは王妃の訃報を聞くとダンス・パーティを開いたそうです。
その直後、王妃は男子を流産します。世間は善良な元王妃を虐げた報いだ、
元王妃の呪いだと噂しました。
こうして、王妃Anneは処刑台への階段を上ります。

Sir Edmundの次はSir Henryと言います。
後に彼はElizabeth1世の獄吏となります。

1549年、ノーフォーク州の農民が共有地の囲い込み(enclosure)に
反対して起こした農民反乱の鎮圧に参加します。
反逆者たちによって捕らえられ、ほとんど殺される寸前で彼はEdward6世の
最もパワフルな大臣であったWarwick伯爵John Dudleyに救われました。
彼はこの恩を忘れず、Dudleyの子分になります。
1551年、Dudleyが初代Northumberland公爵になると、Sir Henryも
騎士叙任されました。

1553年、幼王Edward6世が危篤に陥ると、野心溢れるDudleyは息子と
結婚させた嫁、Jane Greyを後継の女王にさせようと画策しました。
彼女はHenry8世の妹の孫であり、プロテスタント。
Henry8世とCatherine王妃の間の王女Maryはカトリック教徒でした。
Dudleyは国民に不人気なカトリックのMaryではなく、自分の息子の嫁であり
プロテスタントでもあるJaneを手駒にして、国の実権を握ろうと画策したのですが
あえなく失敗。
Dudley、息子、Janeはロンドン塔で処刑され、残りの息子達は罪を免れました。
(4男Robert Dudleyは後にElizabeth1世の寵臣になります)

さて、こんなお騒がせ野心家のDudleyの手下だった、Sir Henryはというと。
Sir Henryの父Edmundが元王妃Catherineの家令だった繋がりからでしょうか、
続くMary1世の支持者として女王を支えます。
つまり、親分であるDudleyを裏切ったわけですね。
Jane GreyがMaryの即位に異議を申し立てた際、彼はMaryを安全に守るため、
140人の騎馬隊を送ります。
即位後、Mary1世は彼を女王の国務諮問団に加えます。

Mary1世の在位はわずか5年。
しかし、女王の強烈なカトリックへの反動政策と、スペイン国王Philip2世との
結婚政策は国民の憎悪を呼び覚ましました。
Sir Henryは女王に対する暴動を抑えようとしましたが抑えきれません。

1554年の3月から5月の間。
Sir Henryが獄吏であったロンドン塔に後のElizabeth1世は収監されました。
暴動を扇動しているのではないかという疑惑によって、異母姉によって
囚われたのです。
その後、Sir Henryに伴われ、彼の監視下で1555年まで、Woodstockの館で
蟄居させられました。

Sir HenryはElizabethを暗殺しようとするカトリックの敵方から引き離し、
反乱へ彼女を巻き込もうとするプロテスタントの同盟者からも離しました。

1555年、Mary1世はSir Henryをロンドン塔長官に据えることで報いました。
ところが、Mary1世が崩御し、Elizabeth1世が戴冠すると、彼の運気は傾きます。
彼の堅固なカトリック信仰と統一法への合意拒否により、彼は宮廷でのすべての
地位を失い、Oxburghへ帰還します。1583年、73歳で死去。

さて、二代飛ばしてひ孫のSir Henry(通称"Cavalier"[王党員])の時代へ。

1590年、"Cavalier Henry"はたったの8歳でOxburghを相続しました。
一族のカトリック信仰への罰金は重く、屋敷や地所の維持へ回す財源は
枯渇していました。
1597年には庭園の277本の樹木が重大な屋敷の修繕のために
伐採されました。

1620年に"Cavalier Henry"はノーフォークの代官となり、1625年には
フランス王太后Marie de Mediciが彼のパトロンとなります。
(彼女はCharles1世妃Henrietta Maria of Franceの母です。)

同年、Charles1世の即位と共に、"Cavalier Henry"の運気は上向きます。
国王は英国国教会の礼拝参列を拒む者に対する罰則から、Sir Henryを
特免してくれました。
(だって、彼の王妃もカトリックなんですもんね☆)

Oxburghではこの安定期に、白鳥が飼われ、果樹園、遊歩道が作られました。

続く、the Civil War(大内乱)の時代には、"Cavalier Henry"のカトリック信仰と
王家への忠誠はピューリタンの一大勢力地であるノーフォークではたいへんな
危険をもたらします。
1644年に、彼と彼の息子はMarston Moorで国王のために戦いました。
後に"Cavalier Henry"は議会軍によってロンドン塔に2年間、虜囚となります。
大内乱はOxburghに大きな影響を残しました。
建物は売られるか没収され、屋敷は略奪され、一部は燃やされました。
一族の損失は当時のお金で、4万7千ポンドという法外な被害でした。

"Cavalier Henry"の死後、Oxburghは長男であるColonel Thomasに
引き継がれ、彼は1665年に子供がないまま亡くなりました。
時はCharles2世の王政復古時代(1660-1688)。

1661年に、Colonel Thomasの異母弟HenryはCharles2世によって
Baronet(准男爵)を綬爵します。
大内乱時の、Bedeingfeld家の王家へ対する中世の見返りとして。
ただし、一族が失った損失については何の補償も与えませんでした。ケチ。
そんなわけで、Oxburghはひどい状態のままだったので、初代准男爵は
Oxburghには一度も居住しませんでした。

その息子、またしてもHenry(いい加減にしてほしい・・・同名だらけ!)は
若かりし頃は"Great Sir Harry"と呼ばれ、大内乱時代にパリで亡命生活を
送っていた王族に付き従い、その忠誠に対して騎士叙任されました。
彼はOxburghを住めるように修繕し、破壊されていたものを置き直しました。
庭もかなり造園し直し、彼の妻の持参金を使って土地や建物を購入しました。
王政復古期のBedingfeld家はそこそこ快適に暮らせたようです。
(思うにCharles1世も1世妃、弟のYork公爵Jamesとその後妻もカトリックだったため、
カトリックに対する当たりはやや柔らかかった時代ですから)


ところが1689年にJames2世が娘であるMary2世とその婿William3世
取って代わられて退位し、彼らは亡命することになります。
再び、強烈なプロテスタントの王権が誕生し、カトリック教徒への課税は
2倍になり、"Great Sir Harry"も領地から5マイル以上旅行することを禁じられ、
カトリック教徒の子供はEnglandで教育されることを許されず、土地を相続したり
購入することもカトリックには禁じられてしまいます。(1700年まで)
必然的に、"Great Sir Harry"は借金を重ねることに。
彼の4人の子供は教育を受けるためにフランドル地方へ送られ、
1704年に彼は死亡します。

"Great Sir Harry"の長男Sir Henry Arundell Bedingfeldは青年期を海外で
暮らし、1713年になるまでOxburghに戻りませんでした。
1719年に彼はプロテスタント教徒のElizabeth Boyleと結婚。
この結婚によって、Sir Henryが直面していた反カトリックの制限をいくらか
緩和することができたのかもしれません。
妻の兄、Burlington伯爵はイギリスの風景式庭園の先駆けともなった
庭園設計者および建築家(パラディオ様式)だったので、彼もその影響を
受け、Oxburghの庭園を改良したかもしれません。

続く第4代准男爵Sir Richard Bedingfeldは父と同じくフランダース地方で
教育を受けました。
彼は1760年に相続し、翌年にMary Browneと結婚します。
彼女は"The Marian Hanging"と呼ばれる、スコットランドのMary女王の
手による刺繍の織物を持参しました。
彼女の実家は1793年に火災に遭いますので、この結婚によって実家から
婚家へ持ち出したことで、このタペストリーを救うことになったのは奇縁かも。

彼らの息子、同名のRichardは1767年にBathで生まれますが、母Maryは
わずか3週間後に亡くなってしまいます。
悲しみに沈んだSir Richardは世捨て人としてOxburghに隠遁しました。
息子のRichardの学校休暇での帰還を除いては会う人もなく。

1775年にはSir RichardはGreat Hallを取り壊します。
橋を取り壊したり、屋敷の部屋のレイアウトを大きく変更してしまいました。

1795年に父が亡くなると、息子のRichardが第5代准男爵となります。
同年、彼はCharlotte Jerningham of Costesseyと結婚。
Jeningham一族ももまた、カトリック教徒の准男爵家でした。
同じ地域にある、同じ宗教の、同じ爵位の2つの家族は何度も婚姻を
繰り返していました。
彼らは結婚後数年間をOxburghで過ごしましたが、1811年にBathへ
転居します。
ちょうど、Regency(摂政時代)華やかなりし頃です。

その後、彼らはGhentへ移ります。
Napoleon戦争終結により、海外渡航の制限が解除されたために可能と
なった移動でした。

一家は現在はベルギー領であるLovendighem城を借り、そこで
Saxe-MeiningenのAdelaide王女と知己を得ます。
彼女は後にWilliam4世妃となる女性です。
この知遇により、Sir Richardの妻Charlotteは王妃の侍女、
"the Queen's lady-in-waiting"としてBrightonで仕えることになりました。
ほら、あのタマネギ頭のRoyal pavilionで、ですよ・・・。

ところで、こうして一家の長い不在の間、Oxburghはどうなったかというと。
1826年の、准男爵の長男(後の6代目)が結婚するまで人に貸し出されて
いました。
屋敷の貸し出しは経済的には有利であったかもしれないけれど、この間に
地所が負ったダメージは深かったようです。
1825年に専門家によって地所は調査され、「材木も農園もすべてひどい
状態である」と査定されています。
また、地所の建物の多くは手入れが行き届かず荒れ果てているので
打ち壊すべきである、と。

屋敷がこのような有様だった頃。
第6代准男爵Sir HenryはMargaret Pastonと1826年に結婚します。
古くからのノーフォーク地方の名家の最後の一人であるMargaretは
なんと5万ポンドもの持参金をもたらします。
しかも、彼女の相続したAppletonの地所を売り払った利益、3万7千ポンドも
付け加わりました。
Jane Austenの小説、『高慢と偏見』に出てくる超大金持ちの独身男の
年収が1万ポンドとか言われている時代です。
ものすごく大金を背負った花嫁ですね~!
その功績(?)ゆえか、Sir Henryは苗字に妻の旧姓を付け加えて、
1830年以後はPaston-Bedingfeldに改姓します。

同年、Sir Henryは弟宛の手紙に、発信元住所として"The Ruin"(廃墟)
と記入しています。これは一種のユーモアですね。
Oxburghは長らく欲していた、"time and money"を得て、ようやく修繕及び
改築される機会を得た時期ですから・・・。

夫妻は相続するやいなや、屋敷の改築に取り掛かります。
Margaretは建築家のJ.C.Bucklerを敬慕し、彼に主要な改築を一任します。

夫妻の子供たちも屋敷を愛しました。
彼らの娘、MatildaはOxburghの水彩画一式を残しています。

1862年に屋敷を継いだ第7代准男爵(またしてもHenry)は妻Augustaと
共に、屋敷の改良をし続けました。

第7代夫人は内気で、信心深く、修道女になるのが夢でした。
しかし、彼女は古い一族の最後の一人として、父祖の地、
ノーサンバーランドのCallaly Castleを守るために結婚しなくては
ならなかったのです。
それなのに、彼女が見たのはその城を夫に売り払われてしまうこと
だけでした。なんて、ひどい。

7代准男爵は息子たちにそれぞれ1000ポンドずつ与え、彼らの
運試しに行かせました。
未来の第8代准男爵と何人かの兄弟はアメリカを旅行し、ワイオミング
のシャイアン族の近くの牧場を購入しました。
彼らは何年もそこに住み、カウボーイたちと共に働きました。
兄弟の一人は"Whisky Dick"として知られ、Wild Bill Hickokと乗り
回しました。

1902年、Sir Henryは父親の死に伴い、Oxburghに戻りました。
彼は42歳になっており、いまだ独身でした。
彼は女遺産相続人を見つけようとしましたが、結局、恋愛結婚しました。
Sir Henryが結婚したのはSybil Lyne-Stevensと言い、彼より23歳も若い
21歳の女性でした。
この女性が後に、Oxburghを破壊から守ることになります。

さて、Sir Henryがワイオミングで過ごした日々は彼が傑出した騎手である
ということで、彼は決して完全には自動車がもたらす変革を理解できません
でした。
彼は田園紳士の生活を楽しみ、献身的な雇用者でした。
彼は1941年に惜しまれながら亡くなりました。

結局、屋敷は高額の相続税ゆえに一族の手から離れざるを得ず。
1951年に一度は第9代准男爵のよって売り立てに出されるも、
1952年に第8代未亡人Sybilによってナショナルトラストへ寄贈されることに。
かくして、屋敷の東翼はPaston-Bedeingfeld一家のテナントして現在も
残されています。(こちらは非公開)

途方もなく長くなってしまいました。
次回は屋敷の中へ!

| UK_2015 | 00:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

こんにちは~
お疲れさまでしたっ、、、これだけの量を書くのも大変だったことでしょう。
読む方は楽しく最後まで読ませてもらいました^^
ちょっとした物語ですよね。
お屋敷にまつわる家族の話、きっとここだけではなくて、ほかにも色々あるんでしょうね。
それにしても真木さんは、ホント物知りで感心します。
外観だけでも、私には結構ツボなお屋敷なので、次の記事で中を見せてもらえるのがとっても楽しみですよ~

| Saori | 2015/11/08 01:03 | URL | ≫ EDIT

自分の備忘録代わりなのです。<blog

プロパティで売ってるガイドブックの受け売りですよー。
500年も同じ一族で所有しているとなると、色々な歴史が
加味されるのもむべなるかな。

この日は私にしてはハードな行程で、なんと一日で2か所
回ったんです。
2か所目のお屋敷の方が好みでした。。。ふふふ。
邸内もお楽しみに~!

| 真木 | 2015/11/09 11:52 | URL | ≫ EDIT















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